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☆このページでは、福知山紅葉丘病院の「やまびこ」誌に載せられた、
『難儀な成ちゃんの詩』他五編のエッセイを紹介しています。


『難儀な成ちゃんの詩』(著:成治)


『難儀な成ちゃんの詩』

                    河原 成治

 ミンミン蝉の合唱が、静かになりかけた頃、ひぐらしが僕
たちの番だとばかりに徐々にその鳴声が大きくなっていく。

 入院して丁度一週間が過ぎた。

この十五年間不眠症と躁鬱状態に悩まされ、今迄に六カ所の
病院を渡り歩いてきたが、神経の病気で入院するのは初めて
のことだった。躁と鬱の振幅はかなり小さくなっているのだ
が、それと反比例して周期がだんだん短くなっている。

それに何度も仕事しては一ヶ月程部屋に閉こもり、又一ヶ月
程仕事しては閉こもるということを繰り返していた。
部屋に閉こもっている僕に、母が行動起すようにと、言うよ
うな言葉を吐くと、すぐカッとなって「俺がこんな人間にな
ってしまったのは『おばあさん』のせいだ」と、母を罵しる
始末で、しかたなく母親はすごすごと部屋を出て行く。

母はこのままではいつまでたっても治らないと医者と相談し、
僕は入りたくなかったのだが結局入院することになった。
 一年前から妻と別居し両親と兄の家族の住んでいる僕の実
家で世話になっていたのだが、離婚問題が出たとたんに兄嫁
が、自分達の娘の教育上よくないからという理由で実家から
車で十分離れた所に部屋を借り、そこで寝泊まりしてくれと
言われた。「僕は、とうとう兄夫婦にも見捨てられたか」と
やり切れない思いだった。

 昨晩は十一時頃寝ついたのだが、夜中二時頃目がさめ、ひ
たすら夜が明けるのをじっと待っていた。「不眠症で人間は
死ぬ事はない」「そのうち、本当に体が疲れてくれば必然的
に寝られるように人間の体はなっているのだ」と世間ではよ
く言われることだが、寝られない人は本当に長期間寝られな
いのであって、そうゆう不眠の日々が続くと当然のことなが
ら、神経に異常をもたらすのである。本当の不眠症で苦しん
だことのない人は「不眠症」と言う言葉を簡単に考えてしま
うきらいがあるが、昼間いくら肉体労働をしても寝られない
時は寝られないのだ。いやむしろ激しい運動をすればする程
逆に寝られない事だってあるのである。

 入院して三回目の診察を受けた。
「先生、私は薬で治る病気やと思っていません」
「そうしてそう思われるんです」
「僕は性格は病気やけど身体は病気と違うと思ってます。い
くら薬のんでも治りませんでした」
「それどうゆうことです」
「つまりですね・・・・・」
「どう言ったらいいのか」
「それじゃ、何故入院されたんですか」
「・・・・親が・・・・」
「入院してから何か変わったなあと思う事ありますか」
「はい、母親や兄から気分的に逃れられたせいか、家にいた
時よりずっと気分が楽になりました」
「今日から睡眠剤をもう一錠増しておきます。そしてまた様
子をみましょう」
「はい」「じゃ、いいですよ」「ありがとうございました」

 三F東病棟には、看護士さん七人と看護婦さん七人が常駐
している。頑固者ばかりの患者集団であるから、なかなか、
言うことを聞かない人が多い。神経の働きが悪くて従わない
のではなく、意地で動かないことが多い。そこでついつい大
きな声で、患者を叱りつけることがある。看護士さんもスト
レスのたまる仕事だろうなあと思った。

 ここにいる患者達は頑固というより「自分に正直に生きよ
うとしてきた人達だと思う。本当は素直で心の澄んだ愛すべ
き者の集りなのだ」現在社会の中で、平然と暮せる人達の方
が、実は病人なのかも知れない。
 僕は「さだまさし」の詩を想い浮かべながら床についた。

  思い通りに
  翔べない心と
  動かぬ手足
  抱きしめて燃え残る
  夢達
  さまざまな人生を抱いた
  サナトリユウムは
  やわらかな陽溜と
  かなしい静けさの中


(平成五年 やまびこ23号より)

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『難儀な成ちゃんの詩(うた)U』(著:成治)


『難儀な成ちゃんの詩(うた)U』

                    河原 成治

 二〇〇〇年、一月、三十一日、午前五時、パトカーで、こ
の紅葉丘病院に入院した。紅葉丘病院に入院するのは、今回
で二度目である。一度目の入院は、八年前の事である。

その時は、三ヶ月間、正確には丁度一〇〇日間であった。
その時は今回に比べて、かなりきつい躁うつ状態であった。
僕は、入院したその日に「この病院に来るべきして来た」と
思った。主治医は、芝先生だった。入院して二週間後診察
で、芝先生はこう言った。「あなたは病気ではありません、
精神病ではありません、まして躁うつ病ではありません、あ
なたはこの病院をすぐ退院すべきです。ただ最初に三ヶ月間
は、おってもらう約束がありますので、三ヶ月間は入院して
頂きます。」何度目かの診察の時、芝先生は、僕の実兄の
同席している前で、こう言った。「河原さんは近々退院し
てもらいます。退院するにあたって注意事項があります。
まず自分の力でアパートを探し、自分の力で仕事をみつけ、
自分ひとりの力で生活して下さい。唯し、二、三ヶ月は、実
家で暮らして下さい。そして、その後は、全て、自分の力で
生きていって下さい。あなたは病気ではありません、必ず出
来るはずです。必ずそうして下さい」 退院の日が決り、兄
と母が、車で迎えに来てくれた。僕の実家である園部の家に
着いた。ところが、ところがである。退院した当日に、前も
って知らされていないまま、兄嫁が、こう言った。「今日から
天神さん前のアパートに住んでもらいます。すき焼の用意が
してあるので、そのアパートで家族で話し合いをして!」僕
の父と母と兄と僕とで、そのアパートですき焼きパーティーが
始まった。「なあ成治!解ってくれ!お前は一度あの家をでた
人間や、一生、あの家で暮らすことは出来ん、お前一人でこの
アパートで生活してくれ!あの家には、兄ちゃんの娘も居る。
そこのところを解ってくれ!」と母が言った。

兄はとてもやさしい人間である。血液型も僕といっしょで、
B型である。兄の気持ちもよく解かる。母の気持ちもよく解る。
父の気持ちもよくわかる。兄嫁の気持ちもよく解る。でも僕は、
納得しなかった。それからの園部の生身天満宮の前の、アパ
ートは、僕にとって地獄のアパートであった。一分たりとも、
そのアパートに、おりたくなかった。僕は放浪生活を始めた。
大阪の友達の所、京都の友達の所、病院で知り合いになった
友達の所、水上勉の一滴文庫、その他、京都、大阪、福井、
兵庫の範囲の中で、一年間の放浪の旅であった。もちろん半
分位は、その生身天満宮の前のアパートで泊っていた。
一年後、僕のアパートをめちゃくちゃに潰し、その結果、し
かたなく、実家で暮らせるようになったのである。

それからの五年間、実家の河原商店のガス配達の仕事、灯油
配達の仕事、食料品、日用品、文具類の店のレジ係をして暮
していた。アパートに入居してから、三ヶ月後に生活保護を
受けていたので、そのまま実家に住居が移っても、三万円の
保護を受ける事が出来ていた。その三万円のうち、二万円は
兄嫁に食事代として、渡していた。もちろん河原商店からは
一円のお金も、もらっていなかった。僕は病気だから仕方な
い。生きていけるだけでも、めしが喰えるだけでも幸せ者だ。
と自分に言い聞かせ五年の月日が、何事もなく過ぎ去った。
実家で暮らすようになってから六年目の事である。兄嫁から、
こう言われた。「娘が、大阪から帰って来るから、それ迄に、
この家から出て行って!」それから、又不眠と躁うつに悩ま
される日々が続いた。僕には三人の子供がいる。今ではもう、
立派な社会人になっている。まん中の娘が昨年夏、初めてこ
の紅葉丘病院に面会に来てくれた。その時が、僕の子供が、
この病院に来てくれたのは最初で、最後の事である。面会
に来てくれた時、一瞬娘とわからなかった。まん中の娘と解
った途端、お互いに涙して抱き合った。何も言葉が出なかっ
た。ひと通り泣いた後、「お母さんは、今どうしてる?」と
言った。娘はこう言った。「五月二十二日夜九時四十一分静
かに、あの世へ行った。知らせるのが遅くなってごめんね許
してね!」僕の五十三年間の人生の中で、一番、哀しい日で
もあり一番うれしい日でもあった。今僕は、生きている。と
にもかくにも生きている。この命、この僕の命を、これから
は大切にしたいと想っている。いづれ退院することになるで
あろうと僕はこの病院をバネにして、出来るだけ長生きした
いと想っている。

     人生は、潮の満引
     きたかと想えば、また逃げていく
     失くしたかと想えば
     いつの間にか戻る

この「さだまさし」の詩を信じて、これからは、力強く、
生きていこうと思っている。人生何が不幸で、何が幸福か、
わからないもの。

二〇〇一年六月十五日


(平成十三年 やまびこ37号より)
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『洗 濯 場』(著:成治)


『洗 濯 場』

                    阿寒 誰也

 彼が洗濯場によく顔を出すようになったのは入院してから
一ヶ月程たってからの事だった。
 それまでの彼の洗濯物は東病棟の裏にある干場か彼の病室に
吊らされていた。洗濯物が多い時は外、少ない時は中で干し
ていたのだが、ある日将棋に夢中になっている時「雨が降り
始めました。外に洗濯物干されている方は取り入れて下さい」
と院内放送されているにも関わらず、ディルームでパチン、
パチンとやっていたのである。彼が「洗濯物」と気付いた時
は、朝食が終って暫くしてから「ジャンジャコ」と降り続け
ていた雨もあがり、鈍い夕日が差しかけてきた頃だった。

 彼は一つの事をしていると他のどんな大事な事があっても
遙か彼方に忘れ去るという特技を持つ「あかんたれや」の人
間だった。一五年程前にも三才の自分の息子を「ちょっと二
時間程預かってくれる?」といって彼の妹の家に預けておい
て自分一人でパチンコ屋に行って「もうちょっとお金持って
いたらなあ、あの台出た筈やのになー、もったいないなー」
等と口の中でモグモグ文句を言いながら二時間程かけて電車
に乗ったりバスに乗ったりして家に帰り「ただいまー。」」
彼の妻が「お帰り、・・・ところで・・・としひろ・・・どう
したん」「あ!忘れた!!」というまで気付かなかったという
事件を引き起こした特殊な神経の持ち主である。

 「あっちのグランドの手間にある物干場やったら忘れても
大丈夫やわ、屋根があるさかい」と教えてもらった看護婦に、
ニタニタ笑われながら恥ずかしそうに洗濯場に行き、その
ドボドボの洗濯物を竿に吊した時、お姉さまとおばさまの
中間位のソバージュ頭のおばさまに「ごめんね、そっち側に
干して欲しいんやわ、こっち側はここで洗う洗濯物干さんなん
さかい」と言われ「ああそうですか、分かりました」「わるい
ね、ごめんなさい」という会話を交した。それ以来彼は毎日
の様に洗濯場に行ってそのおばさま、いやお姉さま達とおし
ゃべりする様になった。
「毎日毎日、沢山の洗濯物大変やね」
「そうやで年々量が増えて来ているから大変なんやで、他
から見とったら洗濯機が洗ろうてくれるから楽しそうに見える
かもしれんけど、出したり入れたり」
「そうなんや、それが大変なんや」
「そうそう、その通りなんや」
「そうなんや、そやけど何時も見たはる様にあの人達に手
伝ってもらってるさかい大部助かってるんや」
「そうなんや」
「そうそう、そうなんや」
「あんたも早よう退院して頑張らなあかんで、子供さんが
いるのにぼやぼやしとったらあかんがな、しっかりしいや、
オトコやろ」
「ハハハハ」
「そんなん言うてる様ではあかんわ」
「そやなー、ここで嬉しい事なー・・・」」
「やっぱり今まで病室でジーとして殆ど誰ともしゃべ
れなかった人がここに来るようになってから、誰とでもしゃ
べれる様になって『よかった』言うてくれはる事やなー」

 彼は退院してからも「ここで一番うれしい事」の会話と、
干場の中央に座ったまま動こうともしない大きな食用ガエルを
みて「おどかさんといたりや、ここの主やさかい」と言う洗
濯場の優しさは忘れることはなかった。



(平成六年 やまびこ24号より)
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『薬 局』(著:成治)


『薬 局』

                    せいじ

 薬局の窓口のブラインドがカタカタという音を立て開いた。
 八時二十五分、その窓越しに薬剤師達が朝の準備に追われ
慌しく動き回っている。大型石油ストーブの「ボー」という
音と「ブーン、ブーン、ガチャガチャ」という掃除機の音の
中を「おはようございます」が彼方此方から飛び交う。

 薬局の受付には鉢植の「オキシ」という札のついた小さな
観葉植物が窓の外一番右側にあり、窓の内側には「ミッキー
マウス」と「ミニーマウス」がチョコチョコンと座ってい
る。その上に入院患者が暇にあかして折り紙で作った色取り
取りの直径十五.六センチの割れない「くす玉」がふたつぶ
ら下げてあり、左側にはその日の日付を示す黒字に白い数字
の「日付表示板」がある。またそれに頼り添う様にぶどうを
かかえたぬいぐるみの「きつね」が眠っている。そのすぐ
左手にこれ又そのぬいぐるみにくっつけて東北の物と思われ
る古代ゆかしき木彫りの「こけし」が笑みを浮かべて立って
いて、すぐ内側に「○○さん、お薬が出来ました」とアナウ
ンスする為のマイクがある。そして受付窓口の外側の木製の
カウンターの左端に朝鮮伝来風日本製一輪差しの花瓶には小
さな黄色の実をつけた「千両」の一枝が生けてあり、窓の中
央の上部にはいかにも「職員の手画」と思われるような文字
で白いプラスチックに「薬局」と黒いペンキでひかえめに書
かれた「表示板」が張り付けてある。

 そんなにぎやかーな薬局の窓口の前を、洗濯場係の女性職
員が二人白い風の様に事務所に向かって成治の前を翔けぬけて
いった。こうして、又、病院の一日が始まった。


(平成六年四月 やまびこ24号)
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『なにがなんでだろう』(著:成治)


『なにがなんでだろう』

                    紅葉 せいじ

 この病院は、なぜ、ここまで職員と患者の心の交流をキビ
シク取り締まるんですか!
 私がこういう発言をすると私の立場が悪くなることはわか
っています。
 でも、語らずにはいられない私のイラダチを私に書かせて
下さい。
 私は、入院すれば退院したくなり、退院すれば入院したく
なります。これも一種の『逃げ』なのかもしれませんが事実
です。
 私は、今の世の人々の心の冷たさに耐えきれずこの病院に
入院してきました。でも、入院すればこの病院の職員達の心
の冷たさに耐えきれなくなって退院したくなるのです。
 いったい、私はどこへ行けばいいのですか。十年前は、も
っと温かな病院だったのに。
 私に限らず、他の患者達も、本当は、人の心の温もりを求
めて入院してくるのではないでしょうか。
 それぞれ病気のカタチは違うけれど、今の世の中で凍り付
いた自分の心を、この病院で温めることが、最も大きな入院
の目的ではないでしょうか。
 キソク、キソクで、薬、薬で患者の心を拘束することが、
この病気を治すとは、とても思えません。
 私達の患者の病気を治すのは、常に他の患者達の温かい心
が治してくれるのです。
 私は生きていく上で、この病院は不可欠な存在だと思って
おります。だからこそ、この病院が、昔のように心温かな病
院であってほしいのです。
 患者達は、皆、愛の足りなさに嘆いているのですから。



(平成十五年 やまびこ39号)
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